『四畳半神話大系』キャラクターの顔に関する雑感

ご無沙汰しております、きどころです。
今回はアニメ版『四畳半神話大系』について思いついたことをつらつらと書き連ねていこうと思います。
今年の春にフジテレビ系列ノイタミナ枠で放送されていたのですが、先日DVD/BDの最終巻が発売されましたので作品完結の区切りとしていいんじゃない?というこじつけと、改めて最終話を見て気になったことがあったのでこのタイミングでの執筆となりました。
言い訳はさておき、最終2話という物語のオチの部分に関わる部分を材料に話をしようと思いますので、視聴しておらずネタバレの気になる方以外で、続きを読むをクリックしていただければ幸いです。

いくつもの平行世界を繰り返す本昨の主要人物として、主人公”私”と全ての可能性の中で出会い影のようにつきまとい、彼を「全力でダメにする」小津というキャラクターが登場します。
小津は原作中でも「野菜嫌いで即席ものばかり食べているから、なんだか月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚だ不気味だ。夜道で出逢えば、十人中八人が妖怪と見間違う。残りの二人は妖怪である。」と表現されるほど奇異な外見をし、その上で本物の妖怪のように振舞うキャラクターとして描かれています。
言葉の情報を視覚化したアニメーション版に置いては、ぬるりとしたウナギのようなシルエットに縦に大きく釣り上がった目、悪魔のようにギョロギョロと変わる表情、といった異様な造形を以て表現されています。
しかし、どうもこの小津の異様な外見は”私”の目にしか見えていない可能性があるのです。
DVD/BD第一巻の特典に封入されていた設定資料集にキャラクターデザインのコンテが掲載されているのですが、湯浅政明監督によるラフスケッチの横に、「主人公にはこう見える」というメモ書きと共に半魚人のような顔をした小津とおぼしきキャラクターが描かれているのです。
その設定が中村佑介によるキャラクター原案、ひいては伊東伸高による実際にアニメーションとして動くキャラクターデザインとして落とし込まれているのであれば、小津の妖怪のような容貌(中村佑介の言葉を引くのであれば「妖怪バージョン」*封入特典におけるインタビューより)は、恐ろしく社会を理解し、上手く立ち回り、常に”私”の先を読みつきまとい「バラ色のキャンパスライフ」への道を踏みにじる彼の不気味さ、ひょっとしたらすべてを見通しているのではないかという底知れぬ恐怖を表現したアイコンとして考えることができます。

小津の妖怪バージョンの顔ですが、ほぼ同じ造形の顔を最終話の”私”にも観ることができます。
最終話とその一つ前の話で、”私”は大学生活における全てのコミュニケーションを否定し、四畳半にひきこもる「四畳半主義者」として描かれます。
2年に渡る大学生活の殆どを四畳半のアパートの中で過ごしてきた彼は、ある日四畳半の部屋が無限に連なる世界に迷い込みます。
現実の世界に戻るべく、扉を開け、窓をくぐり、壁を壊し、天井を乗り越えながら”私”は無限に続く四畳半を旅していくのです。
その不毛な行軍の中、彼は四畳半の中の微妙な差異を感じ取り、自らの歩く世界が時計台の下で分岐した様々なキャンパスライフの行く末としての平行世界であることを自覚していきます。
四畳半主義者として他者と隔絶された生活を送っていた”私”は、自らの選択可能性の中に出会ったかもしれない人々とのつながり、そして数多の世界の中で共通した6人の人物――その中で特に悪友と呼べる存在であった小津――の存在を知り涙を流します。
あるきっかけから四畳半世界世界を脱出した”私”は、賀茂大橋で群衆に追い詰められている小津に出会い、その出会いから芋づる式に他の人物――黒髪の乙女・明石さん、下鴨幽水荘の主・樋口、歯科衛生士の羽貫さん、ラブドールを愛する青年・城ヶ崎――と出会い、明石さんと結ばれ、他の世界の”私”が夢見続けていた「バラ色のキャンパスライフ」を手に入れ、物語は幕をおろします。
ここで注目するべきなのは、小津と”私”の顔です。四畳半世界を脱出し、初めてであった小津はもはや妖怪の面持ちではなく、紛れもなく人間の顔をしたつり目の青年として描かれるのです。
ですが、ラストシーンの間際、足を骨折し入院した小津を見舞う”私”の顔が妖怪小津のような顔に変化するのです。
これはおそらく、そもそも見ず知らずだった”私”が小津のことをあまりに知りすぎていた事による不気味さ・恐怖の表象で、小津の主観における”私”像として考えることができます。
ここで第一話から第九話までの小津と”私”の立場が逆転したと言えるでしょう。この後、平行世界における小津のように”私”が振舞ったのか、それは語られることはありません。
しかし、この推測を元にすると第一話から登場している妖怪版・小津と最終話の”私”の”顔面”の造形が不気味で得体のしれない物として機能していることがまず指摘できます。
また、マンガやアニメにおけるデフォルメされ、キャラクターをまたいで一定水準の表情記号として機能しているいわゆる”ギャグ顔”のように主体の感情の発露としてではなく、不気味な存在を観測する第三者の視点の可視化がキャラクターをまたいで行われていると考えることができるでしょう。
こうした視覚の面での登場人物と視聴者の同一化が平然と――それこそそう見えるのが当たり前であるように――行われている点で、非常に面白い作品であったな、というのが個人的な感想です。

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